わたしのみち

おもうこと、ひびのことあれこれ




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「いじめ」 弱すぎた私。勇気がなかった私。

ずっと書きたかったことに今日は手をつけました。

もう何か月も下書きに保存されたままでした。

 

した側・された側・第三者とそれぞれに感想は違うと思います。

また、「私が間違っている」と思われる方もいるかもしれません。

これから書く出来事は30年前の話です。

当時は無我夢中だったのですが、

30年経った今、私の性格・人格に影響を与えていると感じることがあり、

今の自分が間違ってるんじゃないかと思うこともあったりします。

自分のために内省するために、

そして誰かの心にちょっとでもひっかかればと思って書きたかったのです。

 

 

昭和58年、私は小学6年生でした。

今も昔もよくあるように女子はいくつかのグループにわかれていて、

私はその1つのグループに含まれていました。

グループ同士は仲が悪いというわけではなく、

クラスメイトとしての交流はほぼ全員の間でありました。

私が含まれているグループは7人程だったと記憶しています。

女子同士で当時よく行われていたのはグループ交換日記です。

7人もいると自分の手元にノートが回ってくるのは1週間に1度程です。

ノートが手元になかった間に感じた事やあった出来事などを書いて次の人に回します。

順番は決まっていてノートの表紙裏に書かれていましたので、

あと何日で自分に回ってくるかは容易に分かります。

それが突然回ってこなくなりました。

私を飛ばして次の人に渡っているのです。

間違ってるよ!と思って声をかけても、

その人は気まずそうに目をそらして去ってしまいます。

「無視」の始まりです。

あせります。理由もわかりません。

他の人に「なんで!?」と聞いても既に「無視の指示」は回っていて、

グループのメンバーは遠巻きになり目を合わせてくれません。

無視の理由がなんなのかわからないまま焦燥感と恥ずかしさだけが増し、

苦痛の休み時間を数日過ごします。

メンバー外のクラスメイトは無視することなく話してくれるのですが、

「あの子はあのグループで無視されている」ということはわかっています。

だからグループから除外され、どこにも属していないひとりぼっちとして、

恥ずかしい気持ちがありました。

それは1週間にも及ばず数日です。

数日後突然「謝ったら無視やめてあげる」と言われるのです。

なぜ自分が謝らなければならないんだろう?そこまでして戻るべきグループなのか?

と、当時の私には考えられませんでした。

グループに属するからこその安心感、友達がいるという気持ちを持っていたからです。

「理由は自分で考えて。とにかく謝れば無視やめてあげる」その言葉に、

理由もわからないまま「ごめんなさい。みんなと居たいです。」と言うしかなかった。

そうして何事もなかったように会話もグループ交換日記も戻り、

ホッと胸をなでおろしていたのです。

 

その数日後、今度は別のメンバーが無視され始めました。

私はその理由もわかりませんでしたが、そんなの間違ってる!と声を上げる勇気も、

無視の指示を無視して声をかけてあげる勇気も持っていませんでした。

再び自分に降りかかるかもしれないから・・・

グループを取り仕切っている一人の子(ボス)に従わざるを得なかったのです。

1年間で私とボス以外の子は何度も無視をされることを経験し、

突然やってくるそれにみんなピリピリしていました。

 

*****

 

私は自宅の裏に住むNちゃんと幼なじみでした。

下校後二人でよく遊んでいたものですが、ある日Nちゃんはボスと仲良くなりました。

Nちゃんは別の友達が出来ても私と疎遠になることなく、

一緒に遊ぼうと言ってくれました。

Nちゃんと遊ぶということはそこにボスもいるのです。

私は学校でも下校後もボスの管理下から出られずにいました。

Nちゃんはいつしかボスと共に私の向こう側の人になりました。

人の目が少ない分、学校のグループより帰宅後の方が色んなことがありました。

「飲酒」

 お茶と言って出されたものがウィスキーの水割りでした。

「喫煙」

 当時は子供の御遣いでたばこが買えた時代です。

 ボスは下校後はたばこを持っていて喫煙を強要されました。

「万引き」

 私が欲しいものではなく、ボスの欲しいものを万引きするよう強要されました。

 ボスらも万引きするのですが、誰も発覚することはありませんでした。

「貯金箱がなくなる」

 当時アイドルだったり、東京への憧れみたいなものがあり、

 みんなでお金を貯めて一緒に行こうと1つの貯金箱にみんなでお金を貯めました。

 1回は10円とか50円とかですが、入れる時はみんな同じ金額で、一緒の時です。

 それを地面に埋めて保管?していたのですが、

 気づいたら無くなっていたと言われました。

 嘘だ・・・と思ったのはボスが笑顔だったから。

「お金を強要される」

 千円が五千円になり、一万円になり。

 小学6年の私がそんな大金を持っているはずはなく、

 母が日常費として食器棚の引き出しに入れていた財布から盗みました。

 

こうして書き出してみると、私はなんて馬鹿だったんだろうと思います。

弱すぎる、情けなさ過ぎる。

 

*****

 

これらのことは小学校卒業前に終わりを迎えます。

度々お金が無くなることに不信を持った母が、学校の養護教諭(保健室の先生)に

相談したのです。

もちろん事前に私に「お金を持ち出してないか?何かトラブルがあるんじゃないか?」

と聞いてきましたが、「私じゃない、何も困ってない。」と言うしかなかったのです。

それでも私の周りで起こっていることを察知していた母は、先生に相談したのです。

養護教諭のY先生は私の父の恩師でした。

そして私はよく保健室に遊びに顔を出していました。

悩みの告白や相談ではなく、Y先生を慕って遊びに行っていたのです。

それを知っている母は担任より先に相談しやすかったんだと思います。

 

私と母はY先生に呼び出され、とある駅の喫茶店に行きました。

Y先生から尋ねられた私はもう隠したくありませんでした。

一人の生徒が保護者と共に学校ではない場所に呼び出されるということは、

ただならぬこと、異常事態だとわかるからです。

無視も、お酒やたばこも、親の財布からお金を盗むことも、

そしてそれらを親に気づかれないように隠していることも苦しかったのです。

誰が主導なのか、何をしたのか、どうしたいのか。

全てをY先生と母を前にしてぶちまけました。

二人とも泣いていました。私も泣いていました。

Y先生と母は私の苦しかったこと、言えなかったこと、我慢していたことを、

わかって泣いたんだと思います。

それでもただかわいそうにと慰めるだけでなく、

私の弱さを指摘し、嫌なことは嫌と言うべきだと、ひとりになることを恐れるなと、

教えてくれました。

それからは早かったです。

担任のS先生に話が行き、家庭訪問で私と母とY先生とS先生で話し合いました。

校長先生・教頭先生も含め学校で話し合いの場が持たれ、

当事者とその保護者が集められました。

 

 

後に思えば、親もY先生もS先生も私の様子をよく見てくれていたんだと思います。

「最近どう?困ったことない?」とよく声をかけてくれました。

それなのに、告白できず隠し続けた私。

「何もないよー!」と平静を装っていたこともお見通しだったのかと思います。

親の財布に手を出したころ、私はカミソリを手首に当てたことがあります。

それで死ねると思ったことがあります。それくらい浅知恵だったのです。

でも親を悲しませるというより、

痛みや死ぬことについての恐怖が先立ってできなかったんだと思います。

今生きていて、苦しいことや悩むこと上手くいかないことはたくさんあります。

それでも死にたいとは思わないけど、

この記憶をたどって、あの時死ななくてよかったとも思いません。

それくらい今の私には「死ぬこと」は遠いことです。

 

私は強くならなければと思いました。

嫌なことは嫌だとはっきり口にするというより、

みんなに同調せずに仲間外れにされるんじゃないかという恐れを持たないように、

私はこう思うという意見を言えるように。

選んだ道が一人でも私の範疇では一人なだけで、

範囲を広げればたくさんいるということを考えていました。

そういう気持ちをいつも持って迎えた中学校生活では、

小学校生活の頃のビクビクをした感覚は持たなくなり、

たくさんの友達と上下や誰かの管理下に入ることなく、

たくさんの思い出を作れました。

私はこう思うという意見を言えるように。

選んだ道が一人でも私の範疇では一人なだけで、

範囲を広げればたくさんいる。

これは何歳になっても私の胸の中にずっとあります。

もちろん社会人になったら自分の意に添わなくても従うべき場面はたくさんあります。

それでも自分の一本筋は揺るがないので、

わかって従うことができるし、もし外れても恐れはないように思っています。

自分のしっかりした意見や気持ちを持っていれば、自分はひとりじゃない。

 

 

 

これを読んだ方がどう思うのかは本当にわかりません。

した側の感情は今も私にはわかりません。

ただ順風満帆ではなかったけど、私自身がこんなことがあって、今があって、

今の私はこのままで間違ってないかを顧みたかっただけです。

遥か昔のことだけど、自分の性格や人格を思うとき、

小学6年に戻ることから始めてしまうのです。

そしてY先生とS先生の存在は忘れることなく、弱った私に勇気をくれるのです。

人の苦しみはそれぞれだけど、

こんな形もあるということで一歩踏み出せる人がいたらいいなと思っています。

 

 

 

ARIGATO☆